ヴィパッサナー瞑想20日間コース

インドでの20日間の瞑想リトリートが無事終了しました。

まずは一言

「、、、な、長かった、、、」

20日間、一切コミニュケーションをとらず、目を開けている間は常に足元に目線を落として何も見ず、1日2食カレーを食べ、後は瞑想を続ける。1日のうち、座って目を閉じて行う瞑想が10時間、それ以外の歩いている時、食べている時、シャワーを浴びている時などの生活の時間も瞑想を続け、眠っている時も深い眠りについている時以外は瞑想を続けるという感じで、1日20時間くらい瞑想をしていた気がします。

眠っている時の瞑想というのはピンとこないかもしれませんが、1度興味深かったのは、見ている夢の内容が可笑しくて、現実世界で口の動きを伴って声を出して笑った時に、その状況に気づいており、さらにそれをメタ的に捉えて「おー、この現象は凄いな」と考えながらも、まだ夢が続いているという感じです(伝わるでしょうか?)。英語の勉強のし過ぎで、夢の中で英語を喋り始めるくらい習慣化するという感じでしょうか。

ただただ瞑想を続ける20日間。本当に長かったです(カレーは毎日美味しかったです)。

でも、そのおかげで、前よりも「苦」に関する体験的な理解が深まりました。これが何よりの恩恵だと感じています。

仏教における苦とは、身体的・精神的な苦痛よりも範囲が広く、不満足だと考えられています。心地悪い体験をしている時はいうまでもなく(嫌悪)、心地良い体験をしている時にも、例えば美味しいものを食べている時でも、もっと食べたい、もうなくなってしまう、また食べたいといった感じで(渇望)、常に不満足が生じています。ゴータマ・ブッダ的には「それって結構騒々しいよね?それが苦なんだよ」というわけです。

これらのことは知的には理解していました。しかしまだまだ体験的には理解できていませんでした。

一切コミニュケーションをとらず、目を開けている間は常に足元に目線を落として何も見ず、後は瞑想を続ける。それによって外からの刺激はほとんどなくなり、意識は内へと向かっていきます。そこでは、最近起こった粗雑な出来事(失敗したことや嬉しかったことなど)が生じては消えていき、さらに長い間抱えている欲望(お金に対する執着、性的な欲望、研究者としてのキャリアへの渇望など)はしつこく繰り返し繰り返し生じては消えていきながら減少していき、心は徐々に鎮まり、それに伴って身体の緊張も鎮まっていく。そうして20日目になる頃には、心や身体のほとんどどこにも緊張がなくなり、その緊張が発している強い振動、騒々しさもなくなりました(腕に力を込めている時と力を抜いている時でどちらがブルブルしてるか、騒々しいかをイメージしてもらうとわかりやすいかもしれません)。その状態は今までに体験したことのない、静けさでした。例えるなら、雪国で雪がしんしんと降っている深夜に、人の活動が途絶え、微かな音も雪に吸収され、とても深い静けさがひろがり、そこに静けさがあることに気づく感じです。内側に何もないがゆえにとても穏やかで、何もないのに満ち足りている状態。この状態が苦のない状態なのだと体験的に理解できました。その苦のない状態の体験を通じて、苦とは騒々しさ、あるいは嫌悪や渇望、すなわち不満足なのだと体験的に理解できました。

そして、この本当に鎮まりかえった静けさの状態で、自分が関わっている人たちのなかでも、特に今、大きな苦しみを抱えている人たちが、この静けさを味わえたらどんなに楽になるだろうか、どうかこの静けさを味わえますようにと、渇望や嫌悪をまじえずに心から願うことができ、それが慈悲の瞑想なのだということも体験的に理解できました。

まだ、体験したことを上手く整理しきれていません。話したいことは色々あるような気もしつつ、無いような気もしています。知的な理解を提供したい気もするけれども、ただただ体験してもらいたいなという感じです。

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