ヴィパッサナー10日間コースで感じた菩提心

7/30–8/10に、スリランカのキャンディのDhamma Kutaで、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加してきました。

去年、インドのナシークで20日間コース(http://masahirofujino.jp/2018/01/25/20days_vipassana/)に参加して以来のコースでした。
これまで、20日間コースに参加した瞑想者たちから、「20日間コースに参加すると、その後は10日間コースでも、20日間コースと同様のクオリティの瞑想実践ができるようになりますよ」と聞いていたので、どうなるのかとても楽しみにしていたコースでした。

また、今年の1月に瞑想の認知神経科学研究で博士論文を書き上げ、その後半年間ほど、改めてこれから瞑想実践者として、また瞑想研究者として、社会の中でどう生きていくのかということについて、大学生以来くらい久しぶりに、大きなもやもやとしたものが出てきていたので、瞑想コースに参加することで、身体感覚レベルでなにを感じなにを思うだろうかということも楽しみにしていました。

スリランカへ移動する飛行機の中でダライ・ラマの本を読んでいて、「わたしたちの人間としての最高のつとめは、人間があらゆるたぐいの苦しみ、満足できない経験(苦)から解き放たれる方法をさがし出すことである」という菩提心に関する言葉に出会いました。
僕は以前ヘルスケアカンパニーで働いていたのですが、その時に、人々の健康のために働くということは、反対する人が出てきにくい強い価値観だなと感じていました。しかしこの菩提心に関する言葉はさらに反対する人が出てきにくい強い価値観だなと感じました。
しかしそれと同時に、「この考え方は理想的だけど、実際のところ、僕は、苦から解き放たれる方法である瞑想を、菩提心を持って、人々のために、人々が苦から解き放たれる方法を探しだしたり理解したりするためにやれているんだろうか?やれるんだろうか?」という疑問も出てきました。

僕が瞑想を始めたのは、改めて言うまでもないくらい自分のためでした。
仕事を続ける中で蓄積していくストレスや緊張といった苦や、いつも満足しきることのできない苦、自分の死と向き合わざるをえないことで生じる苦をどうにかしたいという思いで、ヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加しました。
そこで、戒律を守ってこころを鎮め、アーナパーナ瞑想をして注意制御力を高め、ヴィパッサナー瞑想をして無常・無我・苦の智慧を育むことで、自分の抱えている苦を取り除くことができるということを実感することができました。そして、瞑想を続けたい、瞑想を理解したい、瞑想の価値を人々に伝えたい、そう思って会社を辞めて大学に入り直しました。
人々のためにとも思っていましたが、突き詰めていくと、どうしたってそれは自分のためであるようにも感じていました。
理想的には、また知的には、人々のためになることをしたほうがいいと思っているけれども、「それも結局は自分のためになることやんなー」とか考え始めると、「本当の菩提心ってなんなんやろう?」「そんなもの生じてくるんやろか?」といった疑問も出てきました。それでも、それらの疑問は、瞑想実践者として、また瞑想研究者として、社会の中でどう生きていくかを考える上でとても大切なポイントになると感じ、このあたりのことをきちんと体験的に理解したいなーと考えていました。
そんな思いをかかえながら、Dhamma Kutaに辿り着きました。

Dhamma Kutaは紅茶畑が広がる山の斜面の小さな森の中にありました。朝、暗いうちから座っていると、太陽が昇り始める瞬間から鳥たちが起きて鳴き始め、夜は鳥たちが鳴き止むタイミングで虫たちが鳴き始めるといった、とても気持ちの良い音環境の中にあるセンターでした。
参加者は男女合わせて80人くらいで、そのうち20人くらいが旅行者であとはスリランカの人たちでした。スリランカのセンターもミャンマーのセンターと同様に、僧侶のための設備が整っており(食堂が別だったり、瞑想用の台座があったり)、10人くらいの僧や尼僧の方々が参加していました。
コースが始まると、ほどなくして、20日間コース後の10日間コースが、従来の10日間コースと質的に異なるものであることを実感できました。それは、10日間全てをひと時も無駄にできないという強い想いが育まれており、そのために座って瞑想している間もそれ以外の間もどのように過ごせばいいかがわかっており、また20日間コースですでに体験した身体と心の状態に至る道筋のようなものができていたことなどが理由なのだと思います。それによって、深くまっすぐに瞑想に専念することができました。
そして4日目にヴィパッサナー瞑想をする頃には身体もこころも緩み、20日間コースで体験したような深く静かな身体とこころの状態が実現していました。
その静けさを1年半ぶりに体感した時に、「自分のためなのか」とか「他者のためなのか」といったことにとらわれる必要がないことを思い出しました。
深く静かな身体とこころの状態の中で、自分も含めた全ての人がそのような状態を体感できたらいいのになーと自然に感じていました。
そして、自分の中に迷いが生じた時には、知的な理解や、周りの人の声に振り回されるのではなく、ここに、この自分の体験に戻って来ればよかったんだと気づき、暖かい涙が滲んできました。

その後、今までよりも高い注意制御力と智慧に支えられた平静さとともに身体とこころの観察を続ける中で、心臓の周りにさまざまな緊張が潜んでいたことに気づけるとともに、それらの緊張が少しづつ緩んでいくことを感じました。

10日目に、身体とこころが緩み、深く静かな身体と心の状態の中で、慈悲の瞑想をしました。自分がこの10日間の瞑想で得られた穏やかさや調和といった恩恵を生きとし生けるものと共有して、それによって生きとし生けるものが幸せになりますようにということを心の中で願いました。そしてそれを願っている時に、自分の身体にどのような身体感覚が生じているかを観察していました。
黒板を引っ掻く音をイメージしただけでも身体には不快な身体感覚が生じます。苦手な人を想像した場合にも、好きな人を想像した場合にも、身体にはそれに対応した身体感覚が生じます。心理学の分野では、僕たちはそのような身体感覚に基づいて、対象の好き嫌いや価値などを判断していることがわかってきています。
慈悲の瞑想をしている時に、どのような身体感覚が生じているかを観察することはとても重要です。なぜなら、自分が作り出している感情が、ただのエゴイスティックな感情なのか、純粋な利他的な感情なのかといったことを判断する際の重要な基準になるためです。
今回、慈悲の瞑想をしている際に、心臓のあたりにとても繊細で暖かい感覚が生じていることに気づくことができました。そして、それはより純粋な慈悲の感情に関わる身体感覚であることが身体感覚レベルで理解できました。
自分自身が穏やかに緩んでいかないと、より良い慈悲の感情を作り出すこともできないんだなーということを、改めて感じることができました。

10日目の講話の中に、「家で1時間ヴィパッサナー瞑想をする際には、終わってから慈悲の瞑想をすることが大切です。そうしないとヴィパッサナー瞑想が価値のないものになります」という話が出てきます。
僕は、これまでこの講話を、コースに参加するたびに、なので15回以上は聞いているはずなのですが、初めてこの話が、きちんと耳に入ってきて、腑に落ちるレベルで理解できた気がしました。

時間はかかるけど、自分の体験に耳を澄ませながら一歩一歩進んでいく。
そのことを改めて確認することができたコースになりました。
そして改めて多くの人々にヴィパッサナー瞑想の10日間コースに参加してもらいたいなーと思いました。

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