Being with Dying ワークショップ @ Upaya Zen Center

アメリカ・サンタフェにあるウパヤ禅センターで、Joan Halifax老師が主催する、8日間の「Being with Dying(死にゆく人とともにあること)」ワークショップに、藤田一照さんと参加してきました。

ワークショップには、60名程度の人々が参加し、そのうちの8割は医師や看護師で、その多くが死にゆく人をケアすることに関わっている人たちでした。ワークショップの最初の頃に、「自分にとって最も良い死に方とは何か?」「自分にとって最も悪い死に方とは何か?」をできるだけ具体的に考えて書き出すというワークがありました。ワークのあと、参加者の何人かがそれぞれの死にかたを発表していきました。しばらくして老師が質問しました。「この中で、病院で死にたいと考えている人はいますか?」。この質問に対して手を挙げた人は1人もいませんでした。そして老師は続けてこう言いました。「残念なことに、この中のほとんどの人は病院で死ぬことになります。」病院で働く多くの人たちが病院で死にたいとは思っていない。それにも関わらず、ほとんどの人たちが病院で死んでいく。。。文化人類学の博士号を持っている老師は「医療も文化です。多くの人たちが望まない文化は変えていく必要があるのではないでしょうか」と静かに語りました。

「なぜ病院で死にたくないのだろうか?」その問いにヒントをくれた参加者がいました。その参加者は音楽家で、自身が入院した時の体験をシェアしてくれました。その人にとって、病院での音環境は苦痛以外のなにものでもなかったそうです。様々な無機質でとげとげしい機械音、せわしなく動く人々の荒々しい音、周囲の患者が苦しむ音、、、聴覚は死の間際まで残る感覚の一つだと言われています。その参加者は、自分が死ぬ時にこのような音環境で、さらには無機質な「ピーーー」という機械音とともには死にたくないと感じたそうです。
リラックスする、物事を深く考える、意思決定をする、楽しいひと時を大切な人と共有する、誕生日を祝う、、、どんなことにも、その目的をかなえるための適切な環境があります。「生」をできる限り長引かせるということが目的なのであれば、病院は最適な環境なのかもしれません。しかし、「死」と向きあう・「死」に開かれる・「死」を受け入れる・「死」を大切な人々と共有するといったことが目的なのであれば、病院は最適な環境ではないのかもしれません。あるいは、病院はまだまだ変わっていく可能性があるのかもしれません。
全ての人々に必ず訪れる「死」。それを恐れ忌み嫌うものとしてできる限り遠ざけ続けて、最後の最後の一時点で出会い頭のようにぶつかるのか、それとも、それを人生における大切なものとして受け入れながら、人生のプロセスとして噛み締め味わっていくのか。。。病院で働く多くの人たちが、病院で死ぬことが最も長生きできる方法であるとわかっていながら、病院で死にたくないと答える。その答えには、ただ「生」を長引かせるということよりも他になにか大切なことがあるという思いが、意識的あるいは無意識的に現われているのではないかと感じました。
しかし、病院で働く多くの人たちは、死にゆく人を死なせないことを大切な使命としています。その結果、「死」は恐れ忌み嫌うものとして立ちはだかり、「死」を大切なものとして噛み締め味わうこととの間に、様々な葛藤が生じます。そして、その葛藤は、クオリティオブライフを脅かす治療を進めるのか否か、延命するのか否かといった、答えの出ない治療方針の決定に様々な形で現われてきます。老師は、このような状況で、病院で働く多くの人たちが、できる限り客観的に答えを導くために、主観的な感覚を排除する訓練を積んできたことを指摘していました。そして、社会神経科学の研究を引用しながら、主観的な感覚、例えば、痛みを感じない、眠気を感じない、トイレに行きたいと感じないといった訓練を積んでいく間に、他者あるいは死にゆく人に共感する能力も高度に抑制されてしまったのではないかということも指摘していました。
老師は、今このような状況の中で、あらためて、主観的な感覚、特に身体感覚に注目することの重要性を指摘しています。様々な認知神経科学・社会神経科学の研究から、我々は、意識的あるいは無意識的に生じ続けている身体感覚に基づいて、反応したり判断したり意思決定したりしていることがわかってきています。それらの豊富な情報源である身体感覚に気づき、それらに振り回されることなく、情報として活用しながら、「死の捉え方」「死との関わりかた」「死にゆく人との関わりかた」「死にゆく人をケアする自分との関わりかた」について、あらためて感じ・考え・変容させていくことが、この8日間のワークショップの目的となっていました。

ワークショップでは、8日間にわたるケーススタディが行われ、答えのない1つの事例を用いて、まずは1人で感じ考え、次に全員で意見を共有し、さらに小グループでじっくり丁寧に議論を深めるということが繰り返し行われました。特徴的だったのは、1つは、その答えのない事例を客観的に頭で考えるのではなく、主観的に身体感覚に基づいて感じ考えるために、ヨガと瞑想が用いられたことです。毎朝ヨガから始まり、さらに、注意をとどめる訓練・自分の身体感覚や感情を感じる訓練・相手の身体感覚や感情を感じる訓練・死について感じ考える訓練などを一つずつ深めていくプロセスが組み込まれていました。もう1つは、小グループで議論をする際に、カウンシルという方法が用いられたことです。このカウンシルでは、しっかりと自分の身体と心を感じながら浮かんできた言葉を話すことが求められます。その際、中央にある小さな石を手に持った人だけが話すことができます。そして、誰かが小さな石を持って話しているときは、自分の意見を考えるのではなく、話している人の話に心から耳を傾けます。この方法によって、じっくりと丁寧に議論が深められていきました。
事例は、米国に10年前に移住してきた中国人男性が末期ガンになり、答えのない治療方針をめぐって、病院・患者・家族の間で生じた葛藤を扱うというものでした。印象的だったのは、この事例が紹介された当初、全員で意見を共有する場で、複数の医療関係者から、「こんなに少ない情報では客観的な判断を下せない」という意見が出てきたことでした。これは、まさに客観的に頭で考えることを続けてきた専門家ならではの反応なのではないかと感じました。しかし、8日間かけて、身体をほぐし、身体感覚に気づき、それらに振り回されることなく、それらを大切な情報として活用することを学びながら、カウンシルを用いて議論を深めていくなかで、参加者から出てくる意見が徐々に変わっていきました。それらの意見からは、「死」について自分が知っている見方以外の何か大切な見方があることを感じ、実は「死」について自分が何も知らないということに気づき、改めて「死」とは何かを身体感覚を通じて感じ考え始めるというプロセスが生じてきていることを感じました。そのような変化を目の当たりにしながら、この8日間のワークショップは、まさに、いままで自分が作り上げてきた死生観を新たに作り変えていくための体験的なプロセスなのだと気づきました。

今、グローバル化が進んで様々な価値観がぶつかり合い、また、科学技術が進歩して想像もしていなかったような倫理的問題が生じる時代がやってきています。そのような時代に、それぞれの経験に基づいた限られた価値観の範囲内で解決策を探るのではなく、その価値観以外のより広く深い価値観があることを感じ、その価値観について自分が何も知らないということに気づき、改めてその価値観とは何かを身体感覚を通じて感じ考えるというプロセスが必要になってきているのではないかと思います。そして、そのようなプロセスのために、このワークショップで用いられていた、ヨガと瞑想とカウンシルを取り込んだケーススタディが、今後重要な手法になるのではないかと思いました。

〜補足です〜
多くの方からコメントをいただき、ありがとうございます。
ワークショップの最初の質疑応答と、音楽家のかたの体験談がとても印象に残っていて、それらを中心に文章を組み立てていったのですが、全体的に少し偏った方向になってしまっていたなと気づかされました。
以下、2点補足させていただきます。

1つ目は、今回のワークショップには、「『死』に関して、全ての人に共通する最適な答えはない」ということが大前提としてあるという点です。病院で死にたい人もいれば、家で死にたい人もいる。寝ている間に死にたい人もいれば、起きているときに死にたい人もいる。誰かがそばにいてくれるときに死にたい人もいれば、1人で静かに死にたい人もいる。。。1人1人にとって、最も良い死に方や、最も悪い死に方は違っていて、実際の死に方も違っている。老師は、そのような状況で、死にゆく人に関わる人が、自分が積み重ねてきた1つのものの見方で意思決定をするのではなく、できる限り死にゆく人の身体・感情・思考を理解し、できる限りより良い方法を見出していくために、わかったつもりになるのではなく、わからないという開かれた態度、すなわち初心(ビギナーズマインド)でいることが大事なのだと言っていました。

2つ目は、今の世の中にある病院や病院で働いている医療関係者の方たちが悪いと言いたいわけでは、決してないということです。今まで、訪問・見学させていただいた病院では、多くの医療関係者の方たちが、いかにして患者さんのクオリティオブライフを高めるかということに苦心されていました。その一方で、ストレスが溜まりすぎたり、バーンアウトしてしまう人たちの話も聞かせていただきました。そのような病院の質やひいては患者さんのクオリティオブライフをさらに高めるとともに、その病院で働いている医療関係者の方たちのクオリティオブライフも高められるような、新たな、医療文化が育まれていって欲しいなと願っています。

僕自身は、医療関係者でもないため、Being with Dyingのワークショップについて、さらには「死」について、書いて良いものかと、書きながらも悶々としていたのですが、できるだけ多くの人に、こういう考え方や手法もあるということをお伝えしたく、書かせていただきました。
最後まで読んでいただきありがとうございます。

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